天川山 寂光院 明福寺

 
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天川山 明福寺 親鸞聖人略縁起

◇抑当時に安置し奉る親鸞聖人の由来は 聖人常陸国笠間郡稲田という所に深く隠居ましまして、五十余歳の頃帰洛の思召有りて、嘉禄二年(一二二六年)の春庵室を出で給い、同しき六月の初め下総国 葛飾郡(今は武州に属す)東葛西領下蒲田村に着たまう時に、炎暑甚だしければ路次の疲れを休たまわんとて池のほとりなる柳の蔭にたゝずみたまう所に、一人 の老翁そのさま世のつねならざるが長き杖にすがり彼池の面を見渡して曰く 『浅ましや今日も又雲峰碧天に聳え焔砂平地に走る歎くべし悲しむべし』と独言して徘徊す。
  聖人御覧じて老翁何をか歎やと宣う。翁答えて曰く『今炎熱の時にあたりて日を重ねて雨ふらず河の水だにもかれて田の苗是がために焦る斯の如くなる時は人民 餓死近きにあり豈に悲まざるべけんや仰き願くば聖人万民をあわれんで雨乞いしたまえ』と申す。

◇聖人つらつら聞こしめし西に向て礼拝合掌し声高に『天下和順日月清明風雨以時災癘不起国豊民安』と唱えたまいて念仏数返 したまうに忽ち乾の方より雷轟き雨雲一時に天に覆い大雨篠をつくがごとし。老翁かぎりなく喜び、まず是なる松蔭にて雨を御凌ぎあるべしと導引奉りて其身は 行方しれずなりにけり。聖人不思儀に思召ながら日もすでに暮ければ此所に一夜を明さんと心静に念仏したまい。
 はや子の刻に及びしばしまどろみたまう御夢の中に雨雲悉く晴て白日の如し、彼池にうつれる星影光を放ち動き躍て八人の童子と化し楽器を持て水面にたつ一 人進んで曰く、老将軍やおわしますと件の老翁出現して曰く『今日聖人の足をとゝめて諸人の命をすくう少人安慰すべし』と其時、童子楽をしらぶ鳴声調和山川 動す時に老翁の言く、願は聖人暫らく此処に止り末世の衆生を引導したまえ、我等念仏弘通を守護すべしと告げしと思えば、御夢は覚て松吹風の音のみ夢中に聞 えし和琴の響かとあやしまる故に此松を今に至るまで和琴の松と名付たり。

◇又聖人御在室の間、時々御衣など掛たまう故袈裟かけ松ともいえり、熟々夢中の奇瑞を思召し南の方なる林の中を見たまうにかすかなる堂の内に毘沙門天の像 あり是即ち変化の老翁なる事を悟りたまう。殊に毘沙門天は別して念仏の衆生を守りたまうなれば即ち告に任て彼池の辺に草庵を結びたまい、兼て所持したまう 所の聖徳太子直作の真影を安置ましまし住したまうこと三年なり。

◇彼の池水に影をうつしたまい自身の像をきざませたまう故に此池を鏡の池といえり。即ち今安置し奉る弐尺五寸の尊像是なり。誠とに聖人の徳深き故に毘沙門天の降臨ましまし諸人の命をすくいたまうことを時の人感じあえり。

◇斯て安貞二年の春帰洛したまう遺教相続して隆んなりしが世かわり時うつりて数度の兵乱に潰廃せしが弐百四拾余年を経て文明年中(一四六九〜八七年)鎮西 流の沙門徳与笈公和尚在住し廃おる興してより浄土宗風相続せり先に此池において雨を祈り又星の宿れる池なれば鏡が池を又は天川ともいえり二十四輩巡詣記に も親鸞聖人御旧跡下鎌田浄土宗明福寺としるせり。

◇是即ち什宝の旧記をもって来由のあらましを記すところなりあなかしこあなかしこ。

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